|
山本和子 プロフィール
(旧姓 武田和子) |
(株)ZENプロジェクト・顧問
大正10年4月名古屋市生まれ。
武田家は武田信玄の末裔で、名古屋城の新築時から明治維新まで、お城勤めをしていた。
実父の経営が呉服店から洋裁店に変わり、名古屋市内のデパートの2階を借り、高級婦人服の店を持ち、娘の私は婦人服の流行作りに専念する。
昭和20年3月12日夜、米軍B29の大空襲で、名古屋城も名古屋市内も全焼した。
山本と結婚後、昭和26年、31才の時に千葉県船橋市に移住。
4人の子育てを終え、昭和48年、東京都千代田区神田神保町で夫と共に(株)善本社を設立。
平成21年5月、88才までの36年間、出版業に従事、取締役を勤める。
平成22年4月より、(株)ZENプロジェクト・顧問となり、今日に至る。 |
【著書】 |
下記のご本は、ZENプロジェクト宛
ご注文頂ければ、送本します。
送料は、各冊200円です。 |
 |
「歴史絵本・奈良の大仏」
堀池春峰監修・山本和子著
840円(善本社刊) |
 |
「歴史絵本・聖徳太子と四天王寺」
瀧藤尊教監修・山本和子著
1050円(善本社刊) |
 |
「歴史絵本・武田信玄」
上野晴朗監修・
武田和子著(山本和子著)
1050円(善本社刊) |
 |
「歴史絵本・明治天皇と昭憲皇太后」
外山勝志監修・山本和子著
1050円(善本社刊) |
 |
「子育て奮闘記」
山本和子著
(ZENプロジェクト刊)
840円 |
 |
「歴史絵本・伝教大師最澄」
叡南覚範監修
山本覚雄著[ジャーナリスト]
1050円(善本社刊) |
 |
「歴史絵本・昭和天皇と大東亜戦争」
加瀬英明監修
山本覚雄著[ジャーナリスト]
1050円(善本社刊) |
|
 |
 |
 |
 |
|
|
|
岩堀至道老師がご住職であった弥勒寺(みろくじ)は、(現在は、第57世の岩掘眞至様がご住職様です)東京都墨田区立川
(たてかわ)にあり、徳川時代には、江戸城のお堀から東京湾に通じる立川(たてかわ)が掘られており、この川沿いに弥勒寺があり、この寺の住職は代々、碩学(せきがく…大学者の事)の高僧が庵主を勤め、毎月一回この川を利用し、徳川家のお城から船頭がお迎えの小舟を漕ぎお寺に来られ、その船に乗り、登城して、仏教をご講義させていただくことを例としておりました名刹
(めいさつ…由緒ある寺の事)です。とお話下さいました。 |
|
|
|
岩堀先生が、ある日に昭和20年3月10日、東京大空襲の思い出を次のように話されました。。
弥勒寺(みろくじ)のご自坊の広い本堂で、父の形見の長い数珠(じゅず)を、当時60歳の私の母と30歳の私2人が、代わる代わる肩から掛けあっていた夜のことです。
突然、多くの飛行機の爆音を耳にした途端、寺に焼夷弾(しょういだん)と爆弾が直撃し、先生のお母様は火炎と熱風に襲われ、家の外に逃げました。岩堀先生は傷だらけになり、そのまま寺で意識不明になってしまったそうです。
そのあと、心ある知人の所に助けられて、父の形見の数珠を持ったまま意識不明が続き、一ヶ月半ほど手厚い看護を受け、やっと気が付き、私は生き返えりました。
この間、たぶんあの世とこの世をさまよっていたのでしょう。
意識を取り戻した私は、大やけどを負っていましたが、別れた母が気がかりで、捜したところ、母は火の熱さのため、立川まで走り、川に飛び込み、大勢の人たちとともに、水の中で重なりあい亡くなっておりました。
あの大空襲の恐ろしさと火の熱さは、経験した者でなければ分りません。
下町では、1時間のあいだに、22万戸が焼失し、10万人以上の死者が出ました。
昭和21年になると、東京都の役所から、「死体はさわるべからず」のお達しがありました。
戦争中、すべての日本人は、死体が誰だかが分からなくなるという理由で衣服に名前・住所・年齢・血液型などを記載した名札をつけていました。
しかし、岩堀先生はまだ病み上がりの体ではあるが、「亡骸(なきがら)をこのまま何カ月も放置したままでは、あまりにもご遺体が哀れで、放っておくことは出来ない。死者をとむらうのが僧の勤めだ」、また「亡骸から、3月10日に一瞬にして散った戦災受難の、御霊(みたま)の声が聞こえる」と言い、「立川の中に重なりあったままのご遺体を放ってはおけぬ、誰が何と言おうが私がやる。国からの罰が有るなら、私が罰を受ける」と言い、若い僧20〜30人を集め、遺体拾いが始まりました。
幸いにも水死した人達の服には名札が縫い付けてありました。
さすがに役所の手ぬかりの無いのに感謝し、岩堀先生は、ご遺体すべての方々の住所、氏名、年齢まで寺の過去帳(かこちょう)に記入されました。過去帳の数は、1,000
名を1冊にして、4冊以上にのぼったそうです。 |
|
 |
|
若い僧たちは朝、昼、晩、夜中と4交代をきめ、河原の広い場所を選び、心経を唱えながら、4,000
人以上になる遺体を、母の遺骨と共に、他の男性も女性も次から次と焼いていきました。
人の体はリンが含まれており、火の勢いは強く、焼いている遺体から飛び火が来て、作業をする人たちは顔や手足に火傷が多く、みな火ぶくれになり、本当に困ったそうです。
人の体は、一度火がつくと、燃えきるまで水を掛けても消えないそうです。
そのため、昼間はまだ人通りがあり良いのですが、夜になると、人の焼ける臭いにつられ、野犬の群れがその焼いている肉を食べようと寄ってくるので、石を投げたり、棒で追い払うなどして、さんざん苦労をしたそうです。
この作業は1ヶ月半位掛かり、4,000 人以上の燃えた後の遺骨の灰を集め、それを一つにまとめて、知人の日展彫刻家の片岡静観氏に依頼され、遺骨の灰を塗り込んで観音像を作ってもらうようにたのまれました。 |
|
 |
|
 |
|
建立された観音像は、両手を合わせた穏やかなお顔立ちで、静寂さと気品を漂わせ、拝し拝される美しさが評判になり、「美しい露仏」として写真を撮りに来る人が絶えませんでした。と喜んで話されました。
観音像は、弥勒寺を入ったすぐの処に安置されており、毎年3月10日に、心ある人が供花と線香を焚いて行かれる人のために、小さな木の芽までが青みを付けて見せてくれることが凄く嬉しいとも言われました。
晩年、ご病気で、岩堀先生は、お茶の水の日大病院に入院されました。
先生は、私の娘の裕子(ひろこ)をとても可愛がって頂きましたので、二人で病室にお見舞いとお礼に参上しました。
私が「戦後は大変なお仕事でしたが、次の世には先生は仏様にお成りに成りますね」と申し上げると、先生は「人間は仏様にはなれないよ、あの世で少しゆっくりさせて頂くだろうね」と笑っておっしゃいました。
余談ですが、岩堀先生はとてもユニークな方で、「僕はお坊さんだから、毎朝、お経を唱えるんだが、この病室でお経をあげたら、だれかが亡くなったと思われるだろう。
だから、がまんして、心の中でお経を唱えているんだよ」と笑わせてくださいました。
岩堀至道先生が亡くなられて、26年になりますが、時々屈託のない笑顔を思い出し、立派なお方だったと私は心から尊敬しております。山本和子記 |
|
 |
|
文章・イラスト・写真等は、著作権があり複製・引用出来ません。
文 …………………山本和子 (やまもとかずこ)
イラスト・写真…… 山本裕子 (やまもひろこ) |
|
|
|
 |
 |
|
 |
|
山本裕子(ひろこ)
プロフィール |
(株)ZENプロジェクト・代表取締役
1952年名古屋市中区生まれ。
1才の時に上京。
1974年和洋女子大学卒業。
栄養士取得。
卒業後、父親が経営する(株)善
本社に勤め、営業、販売、編集、
デザイン等の部署を担当。
1988年より(株)善本社・事業部
を立ち上げ商業印刷物、ホーム
ページ製作等を手掛ける。
2009年4月、(株)善本社・事業部を 「ZENプロジェクト」と社名を変更し、今日に至る。
|
|